Twitterアプリを消したら、読書時間が増えた。

ちょっと時間が空いたとき、Iphoneを開いてアプリをクリックしてしまう。
Twitterは常に新しい情報を提供してくれるから暇つぶしに最適。フォローしてる人と何となく連帯感があるから、更新もチェックしなきゃとなる。

 

よくない癖で、嫌なツイートするなあとミュートしたアカウントも、たまに見に行って「うわっやっぱ無理だわ〜」「なんでこういう考えなんだろう……(考察)」とみずから嫌な気分になってることもある。謎の自傷行為。炎上してる話題について、世間の反応が気になって延々と画面をスクロールすることも。なんて不毛な時間なんだろ。

 

ふと、私はリアルな活動に時間を割いているのではなく、あくまでバーチャルな世界で情報を追いかけていると気づいた。もういい加減、自分の時間を取り戻したいと思い、ついにアプリを消した。実は前から消したほうがいいなと思いながらできていなかったけれど、決心できた。
何かで読んだが、ネットにハマりやすい人は「短気でアクティブな人」、ハマりにくいのは「落ち着いて、自分の人生観を持っている人」らしい。完璧に前者なので、物理的に離れることが必要だ。

 

アプリを消したら、ワンクリックで見ることができなくなったので、あんなに近かったSNS世界が遠くにいったよう。見るのは1日1回まででブラウザからログイン。
私は活字を読むのが好きだから、その活字欲をTwitterの情報を浴びることで満たしていたのだろう。

 

Twitterを読む代わりに、本を読む時間が増えた。(「ハンターハンター」のネテロの、「代わりに祈る時間が増えた」みたい) 今まではちょっとの休憩時間がすべてTwitterに奪われることがあったけど、それがなくなったので積読を解消したり創作したり、ぼうっとしたりすることに当てたい。

 

昨年のベストセラーの『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン著)でも、「スマホは現代の麻薬」だといわれている。著者いわく、私たちはSNS産業の顧客ではなく商品。現代社会の最大の商品は私たちの「関心」で、各企業は人々の関心を分析し、利益を生んでいる。


スマホ脳(新潮新書)

脳には新しい情報を得るとドーパミンが出る細胞がある。元々は、食料や資源に反応していたドーパミンが、いまはスマホが運んでくる情報のとりこになっているそうだ。

 

ネットに生活が侵食されてるなと感じる人は、強制的にアプリを消すといいかもしれない。私もいまの生活を続けて、もっと他に変化があるか観察してみよう。

「おばさん」は尊敬できない?

ちょっと前にシナリオの講座を受けていた。そこでは毎週あるテーマで200字詰原稿用紙20枚のシナリオ提出が宿題で出される。ある回の宿題のテーマは「尊敬できるおばさん」だった。ふむ。『逃げ恥』のゆりちゃんみたいな、自立した女性? 主人公を優しく見守るとか? またはキテレツで我が道をゆく女性?と考えていると、ある生徒から質問が出た。

生徒「おばさんって尊敬できる人いますか?」
……沈黙。
講師「いや、おばさんって例えば仕事バリバリやってすごいでもいいし、字がめちゃ綺麗でもいいし。何でもいいのよ」
生徒「はぁ」
講師「てか、それセクハラになるから、今の時代気をつけた方がいいよ」
生徒「……はい」

質問した生徒は、納得していない様子で終わった。(会話はうろおぼえ)

私は、おばさんの第一の意味は中年女性を指す一般的な語だと考えていたので、質問に驚いてしまった。たしかに自虐的・侮蔑的にも使うが、お題で出された「おばさん」は「尊敬できる中年女性」と読み替えるところでは、と思った。

もしくは周りに長所のあるおばさんがゼロとか? でもドラマや映画にはいろんなおばさんが登場する。シナリオ講座に通うなら観ているだろう。
石田ゆり子天海祐希夏木マリ……魅力的な年上の女性がいるじゃないか。と思ったが、そもそも、おばさんの定義が違うのかもしれない。

意味を新明解国語辞典で調べるとこうだった。

おばさん【小母さん】親族関係にない中年(以上)の女性に呼びかける(を指して言う)語。より丁寧な形はおばさま、口頭語形はおばちゃん。
(運用)もう若くはないという、相手に対する皮肉や自嘲を込めて用いることもある。

新明解国語辞典

(運用)にもあるように、見ず知らずの女性におばさんと呼びかけるのは失礼と思われる。とはいえ、「おばさん=尊敬できない」のように、質問者には「おばさん」の負のイメージのみがついていることにびっくりした。

きっと、彼の「おばさん」に石田ゆり子は含まれていないんだろうな。「おばさん」とは、小太りでTシャツで寝そべってお菓子食べてて、ガミガミうるさいみたいな。だったら魅力的な中年女性は何ていうんだろう。美魔女?おばさま?お姉さん?わからん。

そんなことを思い出していたら、8/5の朝日新聞に、おばさんという語について、岡田育さんによる記事があった。同じように「おばさん」が持つ負のイメージについて述べている。

女性は若いから価値がある、という価値観のもと、女性も自虐的に「もうおばさんだから〜」と言ってきた。女性誌でも「おばさんと言われないために」というテーマで記事が書かれた。岡田さんは「おばさん」を使わないのではなく、自然にポジティブに使っていきたいとおっしゃっている。

私が最近読んだ『「普通がいい」という病』(泉谷閑示著)でも、著者いわく言葉は多くの人に使われると「言葉の手垢」がつくと記している。(この本では「普通がいい」「普通が幸せ」とか)
その言葉にまとわりつく価値観をよく見て、正しいかどうか考えることが必要だそうだ。

おばさん、を自虐的に使うと、自分も卑下するし、聞いている人もおばさんに対する負のイメージがつく。年齢を重ねることは別に自虐することではない。そういう風潮が育っていけば、「おばさん」は尊敬できないというイメージもなくなるだろう。
同じ日本人でも、言葉の意味のとらえ方がこんなに違うんだなあ、普段の人とのコミュニケーションでも気をつけようと思った。

『「普通がいい」という病』

「普通になりたい」という人が多い。普通になれれば幸せになれると思っている。SNSが発達して、相互に見える世界になり、マジョリティから外れた人を大勢で糾弾したりと、窮屈な世の中になったせいもあるだろう。

もしくは、多様な生き方も認められる世になったが故に、逆に確固たる意志がなければ普通を目指すしかない。(私自身も20何年間で培われてきた「普通」に縛られており、夫に普通はこうなんだよと言って反省することがある)

そんな世の中に息苦しさを感じている人にこの『「普通がいい」という病 (講談社現代新書)』(泉谷閑示著)をおすすめしたい。泉谷氏は精神科医で他にも著作多数。

 

 


「普通がいい」という病 (講談社現代新書)

 

筆者は、人間は一人ひとり違う「角」を持って生まれたという。他人は人の目立つ「角」を問題にして非難するので、人々は自分のシンボルである角を憎むようになり、隠そうとしてしまう。角を切除して普通になることが大人になること、「角」を取り、普通になれという考えが私たちに刷り込まれている。


「普通」を強制してくるまず最初の人は親だろう。親もおそらく周囲の視線や言葉によって傷ついて、「普通」でないことはまずいことなんだと考えるようになり、子供に押し付けるようになる。

著者は、「普通はいいことだ」「普通は幸せ」などといった言葉に付随する世俗的な価値観を「言葉の手垢」と表現する。
言葉は多くの人に使われていくと、手垢や錆をまとってくる。ある言葉がなぜ人を縛りつけ規定するかというと、言葉にくっついている価値観や固定観念が縛っているからという。もし何かの言葉に縛られているなら、「言葉の手垢」を考えてみてはどうだろう。

 

現実もファンタジー
「現実を見ろ」「現実が大事」というが、人間は最後はわずかなカルシウムとリンの固まりになり土に還っていく。
世の中は人為的に決められたルールによって成り立っている。日本銀行もこども銀行も変わらない。お金も肩書きも、限られた社会で通用するファンタジーであり、それに縛られているのだ。

 

問題にされる神経質

神経質だと、鬱とか不安障害になりやすいと問題にされがちだ。しかし、神経質を頑張って減らそうとしてもうまくいかない。そもそも鈍感→繊細という一方通行で、感じていることを感じないようにはできないのだ。

著者は「神経質さに磨きをかけて突き進めば良い。神経質の極みに達した時にポンと抜け出ることになる」という。神経が細いのが厄介なら、敏感になって太ければ簡単に傷つかない。人に影響を及ぼすけど、影響を及ぼされない人格になるのが理想。

 

冒頭で述べた「角」の話のように、どの人にもその人らしい敏感なアンテナがある。このアンテナをみんなと違う感覚だから良くないと思うと、それをひた隠しにして使わないようにする。しかし、アンテナがなくなることはないから、結果として中途半端に敏感で細い状態になり、その人自体が弱くなっていってしまう。

 

小径をゆく〜マジョリティの大通りとマイノリティの小径

著者はいわゆる「普通」をマジョリティの大通りと表す。

大通りは安心だ。

みんなも行っている、みんなそうだから私もこれでいいんだと思える。でも、自分自身で判断を行っているか? 道がどこに向かっていくのかも知らないのに。つまり、思考せずにマジョリティの大通りを歩くのは、自分の人生に責任を持っていないし、自分の人生も生きていないという。

自分で大通りから外れた人はいいが、気づいたらはぐれた人たちに「大通りに戻ることが正解ではない」と言えるかどうか。

マイノリティの小径は不安だ。自分の判断以外に当てにできない。マニュアルもないし他人との比較もできないし前例もない。

それに比べ、大通りは不自由だけど安全。これが人々を大通りに引きつける最大の理由だ。大通りの人は必ず徒党を組む。うちに抱える不自然さ、窮屈さを打ち消したいから「私たち正しいわよね、あの人は変だよね」と自分たちを正当化して安心する。よく見る光景だ。

しかし実際は人は徒党を組んで死ぬことはできない。
死を目前にしたときに自分の生が不自然だったと思えるなら後悔するだろう。自分らしい人生だったと思えるなら、納得して死ねる。だから、著者はみんながマイノリティの小径を行くことを推奨している。

 

 


……みんなと一緒が大好きな日本人にはなかなか難しそうではあるが。ずっと近代以前からお上が言うことにへいこら従ってきた。最近は自分と合わない人をみんなで寄ってたかって攻撃するようになった。それは実は内心不安や理不尽感でいっぱいだからなのだろう。

 

同じ大学や職場、周りで知り合う人は大体同質な人だが、少し外に目を向けると実際は色んな人がいる。同じ仲間で固まらずに色んな人と知り合うと、凝り固まった意識が少しほぐれそうな気がする。

 

 

ざっと本書でためになった箇所を感想交え書いた。著者の泉谷氏は哲学や古典に造詣が深く、本書ではそれらを引用して論じている。実際に読んでみるともっと腑に落ちる感覚があるのでおすすめです。

 

 

ドラマで両想いになると急に熱が冷める

ドラマの人物2人が、徐々に心を通わせていくストーリーはいつの時代も人気です。舞台や人物設定にもよるけど、立場やその他諸々のせいで距離を詰められない彼らを見ているだけでご飯が何杯も食べれます。

 

でも2人がついに!あらゆる障害を乗り越えて想いが通じ合ったあとは、急にドラマ自体への興味が薄れてしまう。
ちょっと前まで読んでいたあるTwitter漫画は職場恋愛の話でしたが、なんか2人がくっつきそうとなると、生々しく思えてあまり読まなくなってしまいました。

 

人気だった韓ドラの『愛の不時着』『海街チャチャチャ』も同じ。
昨年観て、両方とも登場人物が魅力的でストーリーも凄く面白かったけど、メインの男女2人が両想いになってからは、(わたし的に)面白さの峠を越した感がしてしまいました。

 

『愛の不時着』の後半はあの2人ほとんどイチャイチャしてますよね。韓国に戻って(潜入して)、追手に追われスリルある中で生活しますが、なんかずっと画面の中でイチャついてますよね。(あれ、2回も言ってしまった)もちろん、逃走劇やセリの家族問題など面白いし、引き離されて一緒になれない可能性もある。

 

でもとりあえず恋愛面ではくっついたねえよかったねえ、以上の感情になれないのです。
漫画『君に届け』も、好きなのはくっつくまでだった気がする。

 

そもそも恋愛ドラマにおいては、「2人が一緒になれない状況」→「両想いを確認」が最高潮のゴール。だから作品の最後は結ばれてハッピーエンドが多い。

 

なんでかっていうと、結ばれたあとはあまりドラマチックな展開がないからです。好き合ってるかわからない時期は感情が毎日ジェットコースターだけど、付き合い始めてしばらくすると、平坦でそんなにビッグな感情イベントはない。喧嘩しても、元さやに収まるか別れるか。


つまりは現状維持かぶっ壊すか! もうそれ以上に高みに行かないので、ドラマの展開的には面白みがなくなる。

 

現実の世界では、両想いになった後に、あれちょっと違ったなと思ったり、細かいすり合わせ(価値観やマナー…etc.)したり。

 

けど、上で挙げたドラマでは、両想いを確認した後にそのゲンナリする細かいすれ違いは描かれずに、大きな困難を2人で乗り越え、さらに固い絆で結ばれるのです。そこに「リアルじゃなさ」を感じてしまうのかもしれません。

 

じゃあそういう小さいすれ違いのが見たいのか? いいえ。あんなことこんなこと色んなハードルを乗り越えてきた2人のそれは見たくない……。でも無視されると、「けっ夢物語やな」と思うあまのじゃく視聴者。

 

好きな映画『プライドと偏見』は、ぶっちゃけくっついてからの身分差や家族の違いがとても心配ですが、映画ではくっついて綺麗に終わっているので、あーいい夢を見せてもらったなあと満足感がありました。

 

もちろん、交際時や結婚後のリアルな違和感やすれ違いを描く作品はたくさんあって興味を引かれるものが多いです。

以前、蕎麦の食べ方が気に食わないと言って別れた有名人がいました。付き合ったらマザコンだった、借金があった、金銭感覚が合わない…… そういう現実を描くドラマも好きです。

 

ですが王道恋愛ドラマでは、ぜひくっつくのを後ろの方にしてほしい、そんなわがままな感想を持ってしまいます。ここまで書いて、単にイチャイチャを目の前で見させるなと言いたいだけかもしれない……汗

『西鶴一代女』/ 転がり続ける女の人生

西鶴一代女』を観ました。田中絹代主演、溝口健二監督で1952年に公開。

初めて溝口作品を鑑賞。いやー凄い映画体験でした。
原作は井原西鶴の「好色一代女」。江戸時代を舞台に悲劇的な人生を送るお春の一生を描きます。ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞。溝口監督のワンシーン・ワンカット長回しは海外で高い評価を得ました。

 

あらすじ:
御所に勤めるお春は、公卿の若党の勝之助に宿に連れ込まれたところを役人に見つかり、勝之助は斬首、お春は家族と共に都を追われる。ひっそり暮らしていたが、松平家の側室候補をさがす家中の目に留まり、松平家側室になる。男児を産むが、奥方からの嫉妬で実家に返される。だが父親は、お春の出世を見込み借金をしており、お春は島原に売られ、太夫となるーー

 

あらすじ以降もひたすら転落の人生は続きます。映画の中でお春が幸せだった時間は10分もないかもしれない。
せっかくいい感じの家の女中になっても遊女だったことがバレたり、結婚したばかりで夫が殺されたり、男に襲われそうになって寺を追い出されたり、とにかく不運続き。
倒れたところを夜鷹に救われたお春は、食うためには夜鷹になるしかないと言われ、自身も夜鷹になります……江戸時代は女性が暮らしていくには結婚するか女中か、くらいでしょうか? セーフティネットから漏れた女性たちの悲惨さがわかります。

お春はことあるごとに「売女」と罵られますが、好き好んで遊女になったのではなく、悪運と周りの男性によって堕ちたのに、彼女自身が選んだかのように言われて不憫極まりないです。

お春は悲惨な中でも芯を強く持って正直に生きます。運命に翻弄され受け身の人生に見えますが、「猫で笹屋の奥方に復讐」「松平家で幽閉されそうになったところを逃げ出す」シーンは、彼女のしたたかさと機転を感じます。それにしても、せっかく実の息子が殿になり、ようやく松平家で生母としての地位が用意されるのかと思ったのに、そうハッピーエンドにならないのが現実でしょうか。

 

シナリオは今やったら陳腐になりかねない急転直下続きの展開ですが、俳優さんの演技や江戸時代にしか見えないセット、美しい映像で何だか説得力のある作品になっている。田中絹代さんの凄みと上品な佇まいが素晴らしい。

 

ホクロを取ってみた

先日「身体を大事にしよう」と日記に書いたのにタイトルを見て矛盾していると思うかもしれない。いやむしろ!大事だからこそ、取ったのである。

約7年前、突然鼻に2つホクロらしき黒い点々ができた。角栓が詰まり、酸化して黒くなったと思っていた。当時、運動部のマネージャーで化粧ファンデ+汗+汚れが混ざり、まだ化粧覚えたてでちゃんとクレンジングもできていなかったせいか、鼻の角栓とりに精を出しすぎたせいか……(どんなメーカーがいいとか、クレンジングがとても大事だということもわかっていなかった)。
せっかく大学入りたてでうぇいモードだったのに、急に鼻に約2mmの黒点が2つできたので、ちょっと落ち込んだ。泣きぼくろや口元のホクロは雰囲気あるから喜んじゃうかもしれないけど、(個人的に)鼻に4つ黒い点はいらないんですよ。

とにかくある日突然に黒い点ができて、だんだん黒が濃くなり、今に至るまで鎮座していました。
最近、心残りは全部やってしまおうと考える年ごろで、初めて美容皮膚科の門をたたきました。
鏡で自分の顔を見るたび萎えるなら、もっと自分を好きになるために消してしまおう!

評判のいい皮膚科を発見。行ってみると、受付のお姉さんはツルツルで真っ白なお肌。スタッフが肌がボロボロだと信憑性がないですしね。女医さんはキラキラの経歴の暴力と目ぱっちりの若い美人。

私「角栓が化粧汚れとかで詰まったのかと思ったんですけど」
女医さん「これホクロです。学生のときに増える人いるんですよ。大きくなるかもしれないのでレーザーで取りましょう〜」

ホクロだった…絶対化粧と汗による角栓詰まりだと思ったんだけど。どちらにせよ、焼くなり切るなりしないと取れなそうな頑固なやつ。

保険適用外の炭酸ガスレーザーを施術してもらいました。
鼻に麻酔注射して(痛いけど、注射に耐えられる人なら問題なし)、その後レーザーで焼き取って1分くらいで終わり。

鏡で見ると、凹んでる…ちょっと血が出てる…けど、施術後も痛みはありませんでした。

乾燥させてはダメらしく、皮膚科でおすすめされた「デュオアクティブ」を買ってしばらくつけて生活。マスク生活万歳。キズパワーパッドみたいなもので、痕が残らないと評判もよく、同じような方におすすめです? 切り傷などにも有効みたいです。



傷跡からめっちゃ液体出てくる……。
どうなるか心配でしたが1週間くらいして皮膚が再生されて窪みが埋まってきました。色はまだ赤っぽい。しばらく赤みはあるみたいです。あと紫外線には注意。綺麗な肌色になるといいな!

ちなみに値段は1万4000円でした。コンプレックス直るなら安いのでは?
シミ取りとか毛穴を綺麗にするとか、継続的にもっと綺麗にする場合は嵩んでいきそうですが、ハマらないようにここで終わります… 終わり。

カメラ(オリンパスom-d em-10 mark3)

 

OLYMPUS OM-D EM-10 mark3と単焦点広角レンズで撮った写真。(以下は山梨と渋谷で撮った写真です)
まだあまり絞りやシャッター速度をわかってません涙。

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@河口湖

舞鶴城公園

 

 

 

 

広角っぽい写真




 

認知特性をテストしてみた/『医師のつくった「頭のよさ」テスト 認知特性から見た6つのパターン』

人には視覚、聴覚、言語、それぞれ得意な認知特性があります。同じことを見聞きしても、生来得意な方法で理解し表現します。自分はどんな認知特性に秀でているのか、『医師のつくった「頭のよさ」テスト 認知特性から見た6つのパターン (光文社新書)』で、テストと解説が載っていて興味深かったです。

認知特性は生れながらにある程度決まっており、変えることは難しいそうです。ただ、得意不得意を意識していることは意義があります。何かを行うときに、やりやすい方法を選択することができますし、苦手を知っていれば、得意なアプローチにしたり、もしくは苦手なことを伸ばすように努力したりすることができます。



認知特性診断はこちらのURLからエクセルをダウンロードして行うことができます。

タイプ別の特徴

本によると、タイプ別の特徴は以下です。

視覚優位者・写真(カメラアイ)タイプ…カツオくんが描けるアーティスト系
写真として物事を記憶。アニメの脇役のキャラの似顔絵もかける。
歴史の本を読むと、文章だけでも城や戦いの場面が浮かぶ。
野菜をできるだけ多くあげよと言うときは野菜の写真やスーパーの陳列棚をイメージして答える。

視覚優位者・三次元映像タイプ…どんな人の顔も見分けられるエキスパート
映像として物事を記憶する。歴史の本を読むと、城や戦いの場面を想像しやすい。
昔の記憶を順序よく時間を追うように説明できる。
野菜を多くあげよというときは、カメラアイタイプと同じ。

言語優位者・言語映像タイプ…イメージを言葉にできるファンタジスト
言葉を見るのが得意。比喩表現も上手。言語を映像化することも映像を言語化するのも得意。
野菜を多くあげよというときは、上の2タイプと同様。

言語優位者・言語抽象タイプ…ノートをまとめる達人
わかりづらい文章を図式化する。言葉を見るのが得意。
歴史の本を見ると、家系図や相関図が浮かびやすい。
初対面の人は名刺の文字で覚える、道順は文章か図式で。

視覚優位者が感覚的思考者とすれば、言語優位者は論理的思考者といえます。

聴覚優位者・聴覚言語タイプ…ダジャレ上手
コマーシャルのフレーズや歌詞を覚えるのが得意。
難しい話題でも、話を一度聞くだけで理解する。
テレビを見るとき、テロップがなくても意味がすぐに理解可能。


聴覚優位者・聴覚&音タイプ絶対音感タイプ
言葉を聞くのが得意。
音楽を一度聞いただけでメロディを口ずさむことができる。
モノマネや外国語の発音が上手。

テストしてみた

診断テストしてみました。

カメラタイプ 44
3Dタイプ 35
ファンタジストタイプ 28
言語抽象タイプ 24
聴覚言語タイプ 14
聴覚&音タイプ 6

バランスわるっ…。高い順に、カメラタイプ、3D、ファンタジストとなりました。聴覚悪すぎですが、歌がヘタなので当たってると思います。

各タイプの解説

カメラタイプは、頭の中にカメラを持っていて、ある光景を写真として保存しているそうです。職業は画家やデザイナーが多いらしいですが…。だいたいこういう診断の向いてる職業!とかあてにならないですね。でも絵も写真も好きです。絵は模写がやりやすいので、写真記憶の影響かもしれません。


3Dタイプは、建築家、パイロット、外科医などに多いそうです。カメラタイプは平面でとらえますが、このタイプはある場面の時間軸の前後も含めて、エピソード記憶が残っています。
視覚優位者が古い記憶を持っているのは、曖昧な言語よりも写真や映像が色褪せず記憶できるからだそうです。PTSDにもなりやすく注意です。たしかにいやな思い出、衝撃的だったことは鮮明に覚えてます。


ファンタジストタイプは、コピーライターや絵本作家、雑誌の編集者、作詞家などに多いそうです。文章よりは映像として記憶し、言語の映像化、その逆パターンも得意です。個人的に、読書の楽しみの一つは映像を思い浮かべることにありますが、まったく映像が思い浮かばないと言う友人もいるので、特性によるのでしょう。


言語抽象タイプは、内科系医師、作家、教師、金融関係などに多いです。図式化したり論理的にまとめたりするのが得意なコンサルとか当てはまりそう。

それぞれに合った勉強法や生活スタイルが取れるといいのかなと思います。(参考)

もう少しタイプの話を読みたかったのですが、この本の後半以降はさらに広い範囲の特性(ワーキングメモリー、社会性、WISCの話など)を浅く紹介する内容になっています。ですが、前半のタイプ論を読むだけでも参考になります。

カタカナ語のあいまいさ

時効だと思って呟いてみる。
けっこう前にフリーランスの案件でセクハラ案件を扱うことになった。が、以後こういった案件は受けないでおこうと心に決めた。本当にひどい話ばかりで苦しくなるからだ。それに発注者がセクハラに関して面白おかしくする方針で、賛同できなかった。

事例を調べると、たとえば経営者が従業員をホテルに連れ込むとか、盗撮したり、襲ったりなど、本来刑事事件になるべき事例も多くある。職場という囲いや雇用関係によってうやむやになっているのだ。そもそも、無理やり触ったりするのは強制わいせつ罪にあたる。2017年までは被害者側が告訴しないと処罰の対象にならなかった。被害者側の精神的負担が大きいので現在は親告罪でなくなったが、表面化していない事件も多くあるだろう。

人によって判断が分かれるような発言(今日かわいいね、太ったねー)から、重犯罪まで、ひっくるめてカタカナ4文字で扱われるのは事の重大性が隠れるよなあと思った。省略しないとカタカナ11文字だが。

誰かが傷ついた出来事をネットで扱うのは慎重にしなくてはいけない。ましてや茶化すのはセカンドレイプである。そういうことを頻繁にやってる人もいるけどよくできるなあと感じる。週刊誌やツイッターで言いたい放題している方々もいるが。調べているだけでも心にグサグサくる。感覚がマヒしてないとできない気がする。