『寝ても覚めても』/よくいる和製のふわふわした女の子の成長譚

東出昌大さん、唐田えりかさんが出演する『寝ても覚めても』を観た。ゴシップのイメージがついてしまった本作だが、独特な雰囲気でよかった。監督は2021年カンヌ映画祭に出品された『ドライブ・マイ・カー』で日本人初の脚本賞を受賞した濱口竜介監督。

wordpressブログに書いていた映画記事を徐々にこちらに移動しようと思います…)

f:id:Ellie12:20220126073425j:plain

寝ても覚めても』(C)2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会



あらすじと感想(ちょっとネタバレ)

朝子(唐田えりか)は、写真展覧会で不思議な雰囲気を持つ麦(ばく/東出昌大)と出会い、交際するようになる。ある日、麦は姿を消してしまう。3年後、朝子は東京に引っ越してカフェで働き始める。朝子の勤務先のカフェは近所の会社にコーヒーを届けていたが、そこで麦にそっくりの亮平と出会う。亮平は麦と性格も名前も違うが、お互いに惹かれ合って行く。一方の麦は……

————————–

終始、唐田えりかさん演じる朝子も、東出昌大さん演じる麦・亮平もふわふわしていてつかみ所ない人物像。人間味があまりない。(あえての演技なのか、唐田さんに関しては他作品を知らないので不明。)

 

麦は幽霊みたいにフラフラ、朝子もボウっとしてあまり自分の意見を言わず微笑んで頷いている。朝子みたいな女の子いるわーー守ってあげたくなるからモテるんだよね。

 

朝子は、自分勝手で奔放な麦に盲目的に献身するけど、他者から見ると行動原理がつかめない。もちろん、好きな理由を言語化できない時があるのはわかる。なんかよくわかんないけどめっちゃ好き!みたいな。(いやでもあまりにもうじうじが長い……)

朝子は、東京で亮平に出会ったときは、逃げ回ってばかりで自分からは行動を起こさない典型的な受身女子だった。でも頭の中は相手の男性のことで頭がいっぱい。

 

邦画ではこういう主体性がなく、相手の男にただ振り回される、もしくは感情のまま行動して周りを振り回す女性がよく描かれている気がする。なんでそうなっているのかその女の子自身もわからない。

『愛がなんだ』でも主人公は、盲目的に相手の男にアタックし、自己と他者の区切りがないかのようだった。

外国の映画では論理性を大事にする文化の影響か、自分がなぜこの行為をしているか説明できないことはあまりしてない気がする。別にどちらがよいとかないけど面白い。

河合隼雄が日米の違いを論じている節を思い出した。

 

「たとえば、ノドになんか詰まっている感じがしてものがあまり食べられない、ということがあるとします。……アメリカだったら『いったい何が詰まっているのか』」とか、『あなたは言いたくないことがあるんだろう』とか、徹底的に言葉を使ってその原因を究明して解決していこうとします。ところが、われわれ日本人はそのときにそんなことはなんにも聞かない」

「すべて分析して言語化しないと治らないというのはおかしい。また、言語で分析する方法は、下手をすると、傷を深くするときだってあるのです」

 

河合 隼雄,村上 春樹. 村上春樹河合隼雄に会いにいく(新潮文庫) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.265-269). Kindle

 


米国人は「これは〇〇です」とハッキリ説明することが多いが、対して日本人は「何となく」とか「面白いから」などと言って説明はせず、けれど結果的には深い表現になることもある、と述べる。

 

朝子が、傷ついた自分の心をすぐに表現していたら深く傷ついていたかもしれない。
終盤の車の中でモヤモヤを整理してついに気持ちを発露することができたのかも。モヤモヤ一辺倒から成長して、言語での表現を身につけて前に進むことができたのだと思った。

 

 

この映画は賛否分かれているけど、個人の極めて内面の部分の成長を描く素晴らしい映画だと感じた。日本映画は個人の半径5メートル?の世界を描くのはすごく上手い気がする。『花束みたいな恋をした』とか。そりゃ世界的にヒットする作品にはならないが、観た人の心に強く残る作品である。

 

 

 

映画では、震災をきっかけに朝子と亮平の距離が接近する。小説では、朝子が貧血を起こして亮平が助けたことがきっかけだったそう。震災という非日常をきっかけに朝子と亮平が向き合うシーンが印象的だった。

また、写真家・牛腸茂雄の写真がキーポイントになっている。牛腸氏は胸椎カリエスに侵され身体の成長が止まった人物である。有名な写真集は「SELF AND OTHERS」。朝子の、身体は成人しても精神は未熟なままである様と対照的なさまを表している。